古代
縄文時代
古代、川口は魚野川と信濃川の合流地点にある河岸段丘の地形でした。その段丘上に先人たちが居住して生活を営んでいたといわれています。国史跡である荒屋遺跡は1万3千年前の旧石器時代後期のもので、「荒屋型彫刻刀」と呼ばれる小さな鋭い刃を持つ細石刃が数万点出土しています。骨や角や木を加工して作られたこの石器には、人々が鳥獣の狩猟や鮭などの川漁、木の実の採集をして生活していた跡を見ることができます。
その他にも、縄文土器や石器など、数多くの遺跡が発見されています。
荒屋出土の荒屋型彫刻刀
中山南原地区の縄文時代中期の土器
主な遺跡
旧石器時代 後期 |
荒屋遺跡 |
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縄文時代【早期】 | 新敷遺跡 |
縄文時代【中期】 | 中山遺跡、平山遺跡、関尻遺跡、堰ノ上遺跡、上ノ山遺跡、田ノ浦遺跡、久保屋敷遺跡、深田遺跡、牛ケ首遺跡、五郎谷遺跡、安養寺遺跡、宮の脇遺跡、天神遺跡、古屋敷遺跡、山後遺跡、狐原遺跡、上ノ原遺跡、丸山遺跡、蟹沢遺跡、強清水遺跡、天納遺跡、岡平遺跡、上玄入遺跡 |
縄文時代【中期~後期】 | 薬師堂遺跡、西倉遺跡 |
縄文時代【前期~後期】 | 荒屋遺跡 |
時期不明 | 和南津遺跡 |
古墳時代 | 木沢遺跡 |
農耕を営むようになった弥生時代、魚野川の氾濫や農業用の引水困難という理由から、川口地域は稲作に不利な立地でした。このため大きな古代勢力の展開や古墳造営の跡はほとんどみられていません。
鉄器が作られていたこの時代、魚野川は製鉄の原料である原鉱石や砂鉄、燃料の薪や木炭などを川舟で運ぶ水路となっていました。478年に創建された川合神社が「水の神」「舟人の神」といわれるゆえんです。
中世
平安時代
統一国家体制の下にあり、越後国の刺上(やぶかみ)郷に属していました。
鎌倉時代
草分け百姓と呼ばれる多くの農民が住んでいたこの地域に、豪族や武士が入ってきて人々を支配するようになりました。14世紀後半、中林家が先住の農民の指導者としてこの地に住み、人々を統率して発展しました。さらに近隣の多くの人々を合わせて川口村が形成されていきました。(※「川口史」巻頭写真 「川口村耕地絵図」)
川口村耕地絵図
南北朝時代
南北朝時代、全国各地で激しい戦いが繰り広げられました。川口も新田一族の田中氏の支配下で動乱に巻き込まれ、農民が兵士や夫役として下越や信越国境、遠い県外の戦場へ行ったり、兵糧などを負担したりしたといわれています。
戦国時代
戦国時代は河口村と呼ばれ、上杉氏の管轄にありました。上杉謙信が関東に出兵して勝利した帰路、川合神社へ奉納と詠歌の寄進をしたといわれています。また、上杉景勝は田中式部亟あての書状で「川口及びその付近は大切な場所だから軍役を一層真剣に勤めるように」と命令しています。